教育とは生きるとは時代とは
コロナになって一年余小中高は学校を再開しているのに、大学では再開しているところはとても少ない。
大学の学費の中には施設使用料という名目もあるので、使っていないなら返して欲しいという声はよく聞く。
先日子どもの話になって専門学校に行こうと思ったら大学より学費が高いから諦めて大学にしたんです。
とその方は仰っていました。
進学ってなりたい職業ややりたい仕事の為に行く人ばかりではない事もわかっては来ていましたが、なんだかへんな感じ。
大学へ行く意味、戦後の流れでみんなが進学するから、大学を出た方がお給料の高い会社に入って安定した生活を送れるから、そんな流れになってる。
それって変じゃないですか?と言ったところで通用しないのもわかってる。
頭の良し悪しが偏差値だけじゃない事も。
じゃあ偏差値が高いということは?頑張った証?
頑張らないといけないの?
頑張らない人はダメな人なの?
発達障害の人は?
その人達はそこにいてくれるだけでいい存在だったりする。
ダメなわけじゃないけどできる方がいいよね?
お金持ちの方がいいよね。
美人の方がいいよね?
いろんないいよね?があるけど、それこそが、偏差値教育の賜物じゃないかなと思う。
偏差値教育は、人に点数をつけて順位をつけて優劣をつける事、それをずっと教育という名の下され続けたらどうなるのか、物事の判断基準が、人と比べる事、競う事、になってしまう。
あの人はああ大学出たからとか、あの人は学があるとかないとか、いい家の出身と言われていたのは戦前、戦後は学歴の時代になったと言われるのはその為ですね。
人を判断する時にその人の肩書を外してみてください。
そうすると本質が見えてくる。
だいぶ話が逸れちゃったけど、大学、専門学校の事も、なぜ何のためにという事が抜け落ちてたり、自分で最終的に決めていなかったら後々悩むかもしれない。
そしてどんな結果も失敗ではなく経験だという事。
たしかに大学も偏差値が低い大学の方が学費が高い傾向があり、さらに専門的な学校はさらに高い。